(以下は、フィクションであり、特定の個人、または団体を指すものではありません。)
練習室の五線譜黒板の横には、大きな張り紙がある。
『今年こそ、全国へ!!』
角が折れ、いくぶん黄ばんだ紙は、もう、貼られてから何年経つのだろう...
4月―――。
これからマーコンにむけての会議が、練習室で始まるのだ。
*
3年生の部長が話を切り出す。
「最初、うちから話さしてもらうで。意見があったら、どしどし言うてくれへん。」
そういうと、いくぶん、腫れぼったい目で、ひとりひとりの目を見まわした。
「みんな、中学時代の友達で、高校入ってから全国行った者もおるやろ。うちも、羨ましい思う。いったい、うちらと何が違うんやろ...。」
「違わへん。」
「そやろ。中学時代、音も、マーチング技術も、負けてへんかった...ちゅうか、うちらの方が上やった。ほな、なぜ、うちら、全国が遠のいてしまったんやろ?」
「……」
皆、目を伏せてしまった。
部長は、そんな団員たちの様子をぐるりと見まわしてから、
「うちらの期は、全国進出のために、いったん、すべて捨て去りたい思うんや。たとえ、'伝統'であっても...。」
団員たちは、一様に「エッ!」と、驚きの表情を浮かべた。
「コンテストで減点に結びつくことは全て捨て、加点に結び付くことは何でもやってみることや。」
3年部長は、腫れぼったい目をしながら、とつとつと語りだした。
「つまり...」
部長は、自分のこれから言おうとする言葉の重みを感じ、一瞬、言い淀んだが、意を決して、言葉を続けた。
「...全国大会進出のためには、...演技中のダンスは捨て、『キャー』も捨て、蜘蛛の子を散らすような動きも捨てるべきやないか...。それにユニフォームも、動きの統率感がより強調される、ラインの入ったジャージに変える...。」
部員たちは、一瞬、わが耳を疑った。
驚きと当惑とが、練習室を満たす。
部長は部長なりに、前夜、よほど迷ったに違いない。
目に腫れぼったさが残っている。
そして、今なお、迷っているからこそ、自分に言い聞かせるようにも、話しているのだろう...。
しばし、静寂―――。
皆、ショックで口を閉ざしたまま。
練習室は、静かなはずなのに、皆、部長の声が耳につき、各自の頭の中でリフレインしているかのようである。
しばらくしてから、ようやく、学生指揮者のカホが口を開いた。
「たしかに、ダンスを捨てるんは、音の安定のためやと、頭では理解できる。ユニフォーム変更もそうやけど、そういった律花の魂や伝統を捨ててまで、全国行ったとしても、それは、価値があるやろか。もっと言えば、かりに、律花の伝統を捨てて『全国金』獲ったとしても、うちら何者になるんや? 所属は律花高校やけど、魂は律花やなかったら、そんなの、中身のないメッキや。部長は、『伝統』を、どない思っとるん..」
部長が答える。
「...ウチも、『伝統』は大事や思う。そやけど、これまで何期もの先輩たちが、その『伝統』に縛られて、全国行きを逃し、毎年毎年、涙を呑んできたやろ。そやさかい、うちらの期は、律花は伝統に縛られなければ全国進出の実力がある――と、示しておきたいんや。」
DMのリホ。
「部長の言うとおり、演技中、『蜘蛛の子を散らす動き』と、『キャー』という奇声だけは、マーチングとして我慢ならない―――という考えのあることは知っておる...。悪印象が減点方向に働くこともあるやろ...。それは分かる。そやけど、みんな、考えてほしいんや。なんで、律花では、代々、いわば、自滅行為ともいえる、そないな伝統を受け継いできたんやろ...。単純に、伝統に縛られてきただけとは、ちゃう思う。代々受け継いできたんは、もっと深い意味、あるはずなんや、絶対に。」
「うちが思うに...キャーは...勝敗を超えた、律花の魂や。一人一人が輝く、魂の叫びなんや...。」
*
ここで、それまで黙っていた監督が、はじめて口を開いた。
「みんなが真剣に考えとること、ようわかった。」
そしてDMのほうを見て、
「いいところに気づいてくれた。ここから、私に、話させてくれ。」
監督は、全員をぐるりと見回してから、
「軍隊式のマーチングバンドは、もともと、個を滅し、統率を第一としてきた。帽子を目深に被るのもそうや...。やけど、うちの部の創立者は、それを良しとはしなかった。女の子には似合わん、考えてな。」
皆、監督の話にじっと耳を傾けている。
「君らには、まず、個々の輝きがある。魂の叫びがある。それらが一体となってハーモニーに昇華するとき、演奏・演技の緊張と弛緩の中で、見る者のおっきな感動を呼ぶんや。マーチングの空間を、百花繚乱の生み出すおっきな幸福感で包み込むんや。こら律花伝統のポリシーやし、律花にしかできひんことや。」
皆、大きく頷く。
「マーチングの感動は、美爆音と統率のとれた動きだけが生み出すものやない。」
「敬愛の精神、心配りをもちつつ、瞬間、瞬間の互いの心の機微を察知し、常に互いのバランスを図りながら演奏・演技できる域にまで達して、はじめて、個々の魂は輝くんや。」
「そのうえで、みんなとの合奏が本当の歓びとなった場合に、個性がおのずと浮かび上がってくる、今期のサウンドにもなっていくんや。そして...」
監督は一拍入れたのち、
「『キャー』は、いわばその個性を芽吹かせる '気合' のようなもの、そして『蜘蛛の子散らし』は、意図的に統率を崩し、個々の魂の輝きの発露を予感させる'合図'のようなものなんや。蜘蛛の子を散らした動きの数秒後には、もう、次のフォーメーションがピタッと出来上がっておるやろ―――この間の、弛緩と緊張が、個々の輝きをいっそう活かし、惹きつける要素の一つともなっておるんや。」
「私は、そういった考えのもと、『キャー』と『蜘蛛の子散らし』は、前任者からずっと引き継いで来たし、これからも、ずっと続けていくつもりや。ただし...」
監督は、団員ひとりひとりの表情を見ながら
「ただし、前提がある。美しさだけで終わらせたらあかん。律花らしい'個々の輝きのペーソス'を加えて、花開かせ、昇華させ、完結させるんや。」
団員たちは大きく頷く。
そこまで言うと、監督はニッと笑い、そして今度はいくぶん柔らかい口調で
「すでにハーモニックな律花の音はできておる...。あとは、心を掴む'出だし'の工夫、うちの高いマーチング技術を分かりやすい形で審査で見てもらうこと、それから美しさだけでなく力強さや凛々しさ、それでいてかわいらしさなどなど、全体として様々な美をまとめあげたうえで、最後、個々の輝きの発露で、強烈なインパクトを与え、サウンドを含めて全てを美のハーモニーとして昇華させ、完結させるんや...。」
「それが律花の伝統的マーチングのあり方であり、その魂を最大限活かすのが、伝統のユニフォームなんやな...。」
「心配せんでええ。すでに、君らは、全国進出レベルに到達しておる...。あとは、精度を上げていくことと、自分を信じ、皆を信じ、部を信じることや。そう、夢を掴む気概や!」
「はいっ。」
上気した団員たちの顔・顔・顔...。
皆、表情が輝きだした。
「部長。」
「はい...。亅
「君には、負担かけてしまって、すまない。君の、とことん思いつめた気持ちがあったからこそ、皆に私の真意を伝えることができたし、君の真心が、部の心を一つにさせてくれたんや。感謝する。ありがとう。」
そういうと、監督は部長に頭を下げた。
上気した、腫れぼったい部長の目に、ダイヤモンドのしずくが光った。
しずくには、遠くの夕陽が輝き、視界の向こうには、ゴールドの世界が広がった。